ある日、ゆうじは森のきつねと、宝ものの取りかえっこをしました。きつねがゆうじ
の模型飛行機を欲しがったので、その代わり、ゆうじがそら色のたねをもらったので
す。彼は、それを庭の真ん中に埋め、水をたくさんかけました。すると次の日に、な
んと豆つぶくらいの小さなそら色の家が生えてきたのです。
ゆうじは“うちが咲いた!”と喜び、もっと水をかけました。すると、家はさらに大
きくなり、ひよこが住みついたのです。
それから、そら色の家は日増しに大きくなり、ねことぶたも「ぼくのうち」と、喜ん
でやって来ました。さらに、お日さまの光と水をもらい、家がどんどん大きく立派に
なっていくと、ゆうじも入り、その後、町中の子どもたちと森中の動物たちのうちに
なったのです。
ところが、そこへあのきつねがやって来て、自分の宝ものだったそら色のたねがこん
なに大きな家になったと知ると、“ゆうじくん、模型飛行機は返すから、このうちを
返して”と、言いました。そして “おーい、この家はぼくのうちだから、みんな、出
ていっておくれー“と、大声で叫んだのです。
そこで、家からは100人の子どもと100ぴきの動物、100羽の鳥が出て行きました。
その後きつねはひとり、大威張りで家に入り、ドアに鍵をかけて、窓もひとつ残らず
締めたのです。すると、そら色の家は風船のようにどんどんふくらみ、お日さまにぶ
つかりそうになって、・・・。
さて、その後、どうなったでしょうか。
本書は、そら色のたねから、そら色の小さな家が生えてくるという意外性が読者をお
もしろがらせます。
最初はきつねの宝ものでしたが、交換して自分のものになった時、ゆうじは、それを
地面に埋め水をかけて、たね本来の意味を育てようとしました。
隣の芝生をうらやむよりも、掌中の宝ものを大事にしようとするゆうじに、読者の子
どもたちの視線が集まります。
ゆうじにとってはそら色の家がどんどん大きくなり、子どもたちが「自分のうち」と
して寛いだり遊んだりできるユートピアのようであることが、宝ものの意味を成したの
でしょう。
一方、きつねは大きくなった家を自分だけの家として独占所有しました。するとそ
ら色の家は自我肥大の風船のようにパンパンにふくらみ、パチンとわれてしまったの
です。そのリズムが子どもの読者にとっておもしろいようです。
ゆうじは「子どものうち」の内的意味に魅かれ、キツネはあくまでも大きな「いえ」
という外郭に魅かれました。
「あれもこれも手に入れたい」というきつねの自己中心性や万能感がクローズアップ
される気もしますが、作者は教訓的な意味合いこめて、この絵本を書いた訳ではない
そうですので、子どもたち、あるいは大人の心にも潜む「ゆうじ」と「きつね」の両
方の心性が対比的に描かれているのかもしれません。
ところで、本書の作者中川李枝子さんには『子どもはみんな問題児。』(新潮社)と
いう著書があります。
その中で、中川さんは子どもとの付き合い方について、「私は私。子どもは子ども。
一人の個人として付き合うことも必要。無理して子どもに合わせることはありませ
ん」と書かれています。
例えば親子でテレビのチャンネル争いになった時も、「このテレビは私が働いて買っ
たものだから、子どもに見せたくない番組や自分が見たくない番組は見ないの。悔し
かったら早くおとなになりなさい」と話したことがあるそうです。だから中川さんの
お子さんは、「子どものいない家はおもちゃを買わないからお金もち。子どものいる
家はおもちゃを買うからお金がない」と自分なりに諦めていたとか。
中川さん曰く、「子どもをバカにしないこと。子どもにバカにされないこと」。
子どもは一人ひとり違うけれど、その対等性はゆるがない。この絵本でもそうしたこ
とがどこかに表現されているのかもしれません。