主人公の少女みち子はある日森の道で、おもちゃより小さな銀色のアイロンを拾いま
した。手のひらにのるほど小さいのに、ちゃんとコードやソケットもついています。
ところが、“かえしてください”と追いかけてきたのは、白いエプロンをかけたねず
みのお母さんでした。
ねずみは、うちの大事なアイロンがないと子どもたちの洋服も家のものもきれいにな
らない、と言うのです。みち子が驚いて、本当に使えるのかを尋ねると、ねずみは
“使えますとも”と、森の中の電気の通る木にソケットをさしこみ、アイロンを熱く
しました。
そしてしわだらけのみち子のハンカチにアイロンをかけ、隅に可愛いりんごの模様ま
でつけてくれたのです。それは、ひめりんごの木の下にあるねずみさんの家のマーク
でした。
森の奥にあるねずみの家までついて行くと、まっ白なたくさんの洗濯物が風にはため
いています。三時のおやつにねずみの子どもたちとおいしいひめりんごのお菓子をご
ちそうになった後、彼女はねずみさん一家の洗濯物全部にアイロンかけをしてあげま
した。
「そのうちに、夕方になって、ひめりんごの実が、夕日に赤く赤く輝いて、ねずみの家
には、ぽーっと、あかりがともりました。やがて、空がうすむらさきになって、森のモ
ミの木のてっぺんに、一番星が光るころ、アイロンかけの仕事はおわりました。」
(本書より抜粋)
ねずみのお母さんはお手伝いを喜んで、お礼にみち子の髪のリボンにアイロンですて
きな模様をつけてくれたのです。
フィナーレだけでなく、心躍る全編を是非絵本でお楽しみください。
○白いエプロン
この絵本には、白いエプロンのお母さんねずみが登場しますが、安房さんには『エプ
ロンをかけためんどり』という作品もあります。妻を亡くし三人の子どもたちと泣き
暮れていた三十郎さんのもとに、ある日、白いエプロンをかけためんどりが紫色のふ
ろしき包みをしょって現われたのです。亡き飼い主のかわいがっていためんどりが、お
てんとさまの国からいのちをかけて恩返しにきた物語です。
いずれにしても、白いエプロンといえば、家族が心地良く暮らせるように、忙しく日
常を切り盛りする母なる人のイメージでしょう。
『ひめりんごの木の下で』の絵本も、主人公は子ねずみたちと遊ぶのではなく、白い
エプロンの母ねずみを手助けするために、一家の洗濯物全部にアイロンをかけてあげ
るのです。可愛いアイロンを使ってみたいという好奇心もあるでしょうが、ファンタジ
ーを通して母なる人との心の交流が温かく感じられます。
アイロンでしわを伸ばすとは、家族や日常の平安と心地良い祝福を意味しているのかも
しれません。アイロン仕事が全部片付いた後の主人公の達成感は、どんなに大きかった
でしょう。
主人公の喜びに共感する読者も多いことでしょう。
○養女であるということ
安房直子さんは、養女でした。それを知ったのは22歳の時だということ。真実が打ち
明けられた日、安房さんは自室にこもりましたが、翌朝には「(今まで従姉だと思っ
ていたけれど)いっぺんにお姉さんが三人もできてうれしい」と両親に告げたそうで
す。その後も、学生時代からの創作活動を行い、児童文学作家として輝き続けました。
安房直子全集7『めぐる季節の話』(偕成社刊)には、「母のいる場所は金色に輝
く」というタイトルのエッセイが収められています。それは、安房さんがお養母さん
を思って書いた文章でしょう。「母の日に、まだ赤いカーネーションをつけられる幸
福に感謝しています。」という冒頭文に始まり、養女であることをまったく知らな
かった幼年期から、彼女がお養母さんを大好きで慕わしく思っていたエピソードが
数々織り込まれています。
養女だと知った後は、さまざまな想いを全部、作品に込めて綴ったということですの
で、読み方によって、作者の心情が深く読み解けるのかもしれません。
○まとめ
ところで、イギリスの児童文学研究者ピーター・ホリンデール氏が児童文学の特質につ
いて述べた論考が、2001年に児童文学研究者猪熊葉子氏によって『児童文学最終講
義』(すえもりブックス刊)で紹介されました。
その論考は、ひとことで言うと、優れた児童文学作家の多くが不幸な子ども時代を過ご
してきたようだが、彼らは現実の子ども読者を対象として書くのではなく、実は大人
になってもなお自分の内に存在している子ども、すなわち「子ども性」に向けて書
くのだということ。しかもそれは、ホリンデール氏のみならず児童文学作家自身も述
べていることのようです。
安房さんの児童文学作品やエッセイを読む時、養女ゆえに子ども時代が不幸であった
とは想像できません。しかし養女であることを大人になって知った後、児童文学作品
を創作し続けたことは安房さんにとっての必然だったのでしょう。その過程ですぐれ
て文学的な天分をみごとに開花させ、さまざまな想いを昇華させ、その結晶として
数々の傑作が生まれたのではないかと想像します。
児童文学だからこそ、物語やファンタジーの世界をとおして子どもの心、そして生や
死についても俯瞰することができたのではないでしょうか。
私自身は作家でも研究者でもなく愛読者に過ぎませんが、児童文学や絵本に触れるこ
とは、自らの内なる歪んだ「子ども性」を解放し癒やし続けるチャンスでしたし、そ
のようなチャンスが今も与えられることを高齢になって改めて感謝しています。