中国の北に広がるモンゴルには、昔から馬頭琴という楽器がありました。
馬の頭の形をしたこの楽器の由来を伝えるのが、『スーホと白い馬』の
昔話です。
昔、モンゴルの草原に、スーホという貧しい羊飼いの少年がいました。彼はおばあさ
んを助けてよく働き、美しい歌声を響かせては、羊飼いとしての仕事に勤しみまし
た。
ある晩、草原で生まれたばかりの白い子馬を見つけ、おおかみに襲われないように家
に連れて帰ります。愛情を込めて育てた甲斐あって、白馬はたくましくりっぱに成長
しました。
すると、ある春、その辺りの領地を治める王さまが競馬の大会を開くことになりま
した。
スーホも、皆に勧められて白い馬と大会に出場することにしたのです。
王さまは一等を勝ち取った馬の主を、自分の娘の婿にすると公言しました。
ところが、先頭を切って白馬で走り抜けたスーホの貧しい身なりを見て、王さまは彼
を小馬鹿にしました。一等の勝者は娘の婿にという約束も守らず、銀貨3枚で白馬を
自分のものにしようとしたのです。スーホが“自分は馬を売りにきたのではない!”
と抗うと、家来たちがスーホを暴力で倒しました。そして気を失ったのを良いこと
に、白馬を連れ去ったのです。
スーホは友だちに助けられて家に帰り、元気を取り戻したものの、白馬のことが心配
でたまりませんでした。一方、白馬は、王さまの催した馬のお披露目会で、王さまを
振り落として必死で逃げました。王さまは怒りに燃えて、家来たちに白馬を殺せと命
じたのです。ところが白馬は重い傷を負ったにもかかわらず、大好きなスーホの家に
帰りました。しかし介抱の甲斐もなく、白馬は死んでしまったのです。
スーホは悲しみと悔しさで眠れない夜を過ごしました。ところが、ある晩、彼は白馬
の夢を見たのです。馬は「そんなに悲しまないで!それより、わたしの体を使って楽
器を作ってください。そうすれば、いつまでもあなたのそばにいて、あなたを慰めて
あげられます」と言いました。この物語で、スーホと白馬の絆はどうなるのでしょう
か。読者の涙を誘う昔話ですが、永遠を紡ぐ新たな絆が、きっと希望を与えてくれる
でしょう。
モンゴルの広大な草原に繰り広げられるスーホと白馬の昔話は、内モンゴルをよく
知っており、モンゴルへの想いも深かった画家・赤羽末吉さんだからこそ心を打つ絵
本に仕上げることができたのでしょう。
初版の絵本『スーホのしろいうま』は1961年「こどものとも」67号の月刊誌として、
1か月という期限付きで制作を依頼された作品でした。ところが日本画家から絵本画
家への転向を目指した赤羽さんにとっては、納得のいく作品とはいえなかったようで
す。多くの読者のリクエストもあり1964年に再販の話が出た時には、思い切って編集
者の松居直さんに、「大型本でやりませんか」というアイディアを出したそうです。
そして嬉しいことに、本の大きさから形、ページ数、期間まで全て赤羽さんに任され
ての制作になりました。
ところで『絵本画家赤羽末吉 スーホの草原にかける虹』という赤羽末吉さんについて
の著作があります。この本は赤羽末吉研究の第一人者といわれる、赤羽茂乃さんに
よって書かれました。
赤羽茂乃さんは、赤羽末吉さんの三男・研三さんの妻です。嫁いで以来、義父にあた
る赤羽末吉さんやその作品を真近に見て、実父のように慕い、尊敬の念を込めて『絵
本画家 赤羽末吉 スーホの草原にかける虹』を著しました。この本から私たち読者
は、赤羽末吉さんの渾身の創作、作品についてのみならず、その人柄や子どもたちへ
の想いについても深く豊かに知ることができるのです。
さて、ミリオンセラーとなった『スーホの白い馬』に話を戻しますと、この再販絵本
の第一場面には、モンゴルの広大な草原にかかる大きくて美しい虹の絵が描かれてい
ます。
その絵は、『絵本画家赤羽末吉 スーホの草原にかける虹』によれば、赤羽末吉さんが
敬愛してやまなかった斎藤英一氏の作品「歓喜嶺の二重虹」に酷似しているそうで
す。
斎藤英一氏は、赤羽さんの所属した画家グループ、黄土坡美術協会のまとめ役でし
た。また「歓喜嶺の二重虹」は、満州国美術展覧会民政部大臣賞を受賞した作品で
す。
ところが作者の斎藤氏は、敗戦後、長春の町でスケッチしていたところをソ連兵
に連れ去られ、帰らぬ人になってしまったのです。
赤羽茂乃さんは、著作の中で、“赤羽末吉は、無念の死を迎えた斎藤英一さんへの鎮
魂の思いを『スーホの白い馬』に込めたのではないか。二重虹と雲をこの絵本に描き
こむことによって、戦争の犠牲となった斎藤英一さんをこの本で蘇らせようとしたの
ではないか“と書いています。
赤羽末吉さんは日本画家を志して、18歳の時、一年間日本画へ入門し、その後、舞台
装置家を志望したり、幾人もの画家を師と仰いで画才を深めていきました。しかし最
終的に、絵本という表現様式の魅力を見出し、絵本作家としての仕事を手掛けたの
は、『かさじぞう』を描いた40代後半からだったのです。『スーホの白い馬』の完成
は57歳の時でした。
茂乃さんによれば、その絵本を幼稚園児だった息子さんに読み語ると、彼はだんだん
体を硬くして聴き入り、最後にはお母さんの茂乃さんにしがみついて泣きやまなかっ
たといいます。後にその話を聞いた作者赤羽末吉さんは、「(孫が)感受性の豊かな子
に育って良かったね」と言ったそうです。
赤羽末吉さんは子どもの理解力や感性に対して絶大な信頼を持っており、真摯に絵本
の制作に取り組んだ画家でした。「こどもの本棚」(赤羽末吉<絵本づくりー私の姿
勢>「子どもの本棚」通巻124号、子どもの本研究会/1980年)で赤羽さんは、「子ど
もはそういう細かいところまで見ている。決して馬鹿にできない。そこまで見てくれ
るんだからこっちもいい加減なことしちゃならないということになります。子どもの
ものだからその絵本の本質的なもの、その主題の本質的なものをどう表現するかとい
うことで、ぼくはずっとやってきているわけです。」と、書いています。
そして、父親としても、我が子の進路などについては、子どもの意思をどこまでも尊
重して決して反対することなく、「ああいいよ、やってごらん」とどんな時も快く応
援する父親だったそうです。
赤羽さんの絵本は国内外で愛され、70歳の時に、日本人として初めての国際アンデル
セン賞画家賞を受賞しました。それは、何と喜ばしいことだったでしょうか。
私にとっては、この絵本だけでなく、赤羽茂乃さんによるぬくもりあふれる赤羽末吉
論『絵本画家赤羽末吉 スーホの草原にかける虹』に出会えたことも、こ のうえない
幸いでした。