主人公は、とらねこ大将と10ぴきののら猫たち。
食べ物が何でも11等分なので、11ぴきはいつもおなかがぺこぺこでした。
そんなある日、ひげ長のじいさんねこが、“あの山の向こうの湖には、怪物みたいに
大きい魚が住んでる。”と教えてくれたのです。
ねこたちは、“そんなに大きな魚ならおなかいっぱい食べられるぞ!”“ どんな大き
な怪物だって、みんなで力を合わせればつかまえられるよ!”と、野越え山越え、湖
まで出かけて行きました。
そしてみんなでいかだを作り、やっとの思いで湖の小島にたどりついたのです。
すると、待ちに待ったある日、とびきりすごい怪物みたいな魚が水中から飛び出しま
した。
11ぴきは、みんなで全力を尽くし捕まえようとしましたが、何度やっても全然歯が立
ちません。
こりゃ、体を鍛え、作戦を立てるしかないか・・。
すると、ある日怪魚は、ギラギラと輝くおひさまに向かって、 昔なつかしい“ねんね
こさっしゃれ”(中国地方の子守唄?)を歌ったのです。
それを聴いたねこたちは、ある晩、怪魚がお気に入りの島で寝ているのを見つけ、そ
の周りで何度も“ねんねこさっしゃれ”を歌って、魚がいびきをかくまで深く眠らせ
ました。
それから、一致団結して怪魚を捕まえたのです。
やったー!みごと大成功!
早速、ねこたちは、その獲物を連れ帰って皆に見せるために、意気揚々といかだにつ
なぎました。ところが夜が明けてみると、その大きな怪魚はあられもない姿になって
いました。
本書を読むと、私は、ノーベル文学賞受賞作家ヘミングウェイの『老人と海』を思い
出します。どちらの本でも、やっとの思いで捕獲した大魚が、最後に骨だけになって
しまうシーンが印象的だからです。
『老人と海』をご存じの方も多いと思いますが、主人公の老漁師が84日間も不漁の海
で、大きなカジキに出くわし、死闘の末、その大魚をみごとに捕獲したのに、思いが
けない結末を迎えます。
孤独な老漁師の不屈の精神と哀感。
みじめな結末にも、彼を師のように慕う少年が待っていることに一筋の希望が宿る、
おとなの小説です。
一方、『11ぴきのねこ』は仲間と団結し、武器や力ではなく、知恵を働かせて怪魚を
捕らえるユーモラスな作品です。
この、子守り唄で獲物を眠らせる戦略は、読者の子どもたちにとって、面白く親しみ
が湧くものでしょうし、おとなにとっても、絶妙で心和むのではないでしょうか。
私事ですが、子守り唄というのは不思議です。
私は乳児の時に生母が病死したため、祖母の子守唄とわらべ唄で育ちました。
2歳の時に来てくれた新しい母は、きれいな声でシューベルトの子守歌を歌ってくれ
ましたが、おばあちゃん子の私はその歌に馴染めず、眠りもせずに泣き続けました。
継母は、人見知りの激しい継子の私に、どれほど手を焼いたことでしょうか。申し訳
なく思います。
ところで、絵本『だいくとおにろく』(福音館書店)で、窮地に陥った主人公の大工
を助けたのも、遠くから聞こえた鬼のわらべ唄でした。
子どもが幼い時に聴いて育った子守唄やわらべ唄というのは、時が経ってもその人を
リラックスさせ、無意識の世界に憩わせたり、何らかの助けになるような働きがある
のかもしれません。どんな唄がその人の「子守唄」になり「わらべ唄」になるかは、
人によって違うのでしょう。
この絵本では、怪魚の歌う「ねんねこさっしゃれ」が11ぴきのねこたちにとっても馴
染みの唄であったようですし、それが幸いして、怪魚の捕獲につながったのだと思い
ます。
それにしても、本書のフィナーレでは、ねこたちの満腹の寝顔の何と幸せそうで面白
いことでしょうか。そこが、絵本という子ども視点のユーモアであり、小説『老人と
海』のおとなの魅力とは味わいが違うところなのかもしれません。